生まれた命と向き合う
生まれた命と向き合う
僕たちは生まれてから死ぬまで、いったいどれだけの奇跡と出会えるのだろう
子が生まれたのは、春のドラマが落ち着かぬ4月の初旬。その子は、予定より早くこの世に生まれ落ちた。骨と皮だけしかなかったその体は、およそ2000gの低体重児であり、未熟児だった。
母の知らぬ間に、子はNICUに入り治療を受けていた。子も母も、互いに会えないまま数日が過ぎた。その間ざまざまな検査も受けたが、幸運なことに、何の問題も見つからなかった。
今ではぷくぷくと体を膨らませて、息をしている。元気に寝返りをうっている。
出産にもNICUにも沢山のお金がかかる。書類の申請や生活、仕事、すべてが混在した日々の向こうに今がある。
誰しもがそうだけれど、生まれた瞬間から、ただの一人で生きた人はいない。すべての人は、生まれながらにして生かされて、今もなお生きている。幾千もの手に手が重なって、僕たちはこの頼りない体に温度を宿してゆく。
そうだ。人は温度を宿されて、生かされて生きている。人は自分自身を生きることに一所懸命になれていれば、それでいい。そして、与えられた温度に手を重ね、次の体に温度を宿してゆくことができれば、人生はより柔らかな温もりを宿してゆくにちがいない。
他の誰かの温度を奪うような殺すようなことは、してはいけない。それは大変悲しいこと。でも、奪ったことも殺したことにも気づかない人っている。そういう人ほど、全部見えてると思っていたり自分は正しいのにだなんて思っている。僕もそう。僕もそうだから。
何かできる必要はない。誰かより劣っていたっていい。何言われたっていい。
自分が信じたことをやってみればいい。なにせ、一度しかない人生。やってみてだめなら、また別の信じたことをやってみればいい。そのくらいの余裕、人生にはあると思うから。
今日も、この命を生きよう。
温度のある人として。
温度を宿す人として。