ミニレゾのミカタ

『ニートのいずみくん』の日記的なログ

地元という感覚、感覚を伝えてくのが継承

地元という感覚

ぼくは名古屋市に生まれたらしいんですけれど、確かに暮らしてきたのも名古屋市なんですけれど「地元はどこか?」と聞かれたら「名古屋じゃないなあ」と思ってしまいます。

ぼくは、幼少期からの持病のおかげで(「せいで」というほど嫌な思い出ではないので「おかげで」と表現)あまり自分から外に出るようなことがなく、名古屋駅まで出るということにかかる交通費やご飯代にかかるコストを考えると、余計に「外に出る」という選択はできませんでした。持病にかかる通院費がいくらかということを知っていたので、それ以上にお金をかけてもらおうという発想・思考への後ろめたさは尋常ではなく、「行きたいところへ行く」という選択はしづらかったと記憶しています。

その癖みたいなのは今でも残っていて、行きたいところへ行くという選択肢をもたないために、行きたいという感覚を使ってこなかったために、今でも「行きたい」とか「やりたい」とかいうことを素直に思ったり口に出したりすることが難しいことがあります。本当はやりたいのに、あんまりやりたそうにしなかったり笑 本当はやりたいのに。

我慢するっていうことが当たり前になってるんですよね。そういうことも何年もかかって最近になってようやく抜けつつあるところです。我慢したいときはすればいいけれど、その時の気持ちに素直に行動したり考えたり感覚にしたがったりする方がずっといいと、今のぼくは思っているので、ちゃっちゃかいろんなところへいってしまいます笑

あれ、なんの話だったか。

あ、そうそう。ぼくにとっての地元って名古屋じゃないんです。もっと身近な場所なんですね。幼少期から思春期までずーっと都会的な名古屋をあまり経験することなく過ごしてきたので愛着がない......ということなんですね。右向けば田んぼ、左向けば終着地点のバス停がある。空は広くて川が近い。年に一度は町内会で集まって神楽をひいて太鼓をたたく。少なくてもそこに人が集まって、お酒をいただいたりお菓子をいただいたり、時間を分け合う。笑いあう。賑わう。

それがぼくにとっての地元。

都会的な名古屋市の風景には、ぼくはどうも馴染めないなあ。

 

感覚を伝えてくのが継承

仕事でもなんでもそうだけれど、必然性とか存在意義を感じることってとても大切なことだと思う。地元の祭りや行事に参加することで、そこで地元のみんなと分かち合う時間や感情を経たずっと後になって「あの時、こんなことあったな」「なんとなくわかるな」とかそういう感覚が出てくる。「思い出」とか「体が覚えてる」みたいなこと。そういうことがあると「あ、自分はここにいたんだ、そして今もいる。ここで育ってきたんだ」みたいな価値がより大きくなってくる。

それが「地元愛」って言われるようなものなのかもしれないけれど、本当に継承していくべきことって伝統や文化と言われることではなくて、そういう感覚なんじゃあないかなと思ったよ。そういう感覚がある上で、その地元の伝統を継いで行きたいとか文化を継承していきたいとかいう個人的な欲求にまで落ちていくのかもしれない。

今日の自分がそうだったから、なんとなく。

やらされ感覚でやっている伝統文化芸能ってたくさんあると思う。それは、本当の意味で継承しているものではなくて、いわゆる形骸化しているということなのかもしれないけれど、「絶やさない」という意味では大きな役割があるようにも思う。

でもそれってどこか消極的な感じもする。

もっと前向きな「地元愛」みたいな感覚が継承されていくなら、嬉しいなあ。