ミニレゾのミカタ

『ニートのいずみくん』の日記的なログ

ミニマリスト的な暮らし方でありたい理由をひとまず3つ

これは、ミニマリスト的な話です。

 

ぼくは、あまりものを持っていないものとばかり思っていましたが、仕事をやめて、部屋を見渡すと、まだまだありました(^^; 旅をする分にはバックパックというよりもリュックサック的なカバン一つでどこへでも行けるミニマリストですけれども、生活をするということにおいては、全然ミニマムじゃなかったのです....( ;  ; )部屋を改めてじっくり見渡すことで、そのことがよくわかりました。モノだらけです(ガーン)

 

本記事では、ぼくが部屋を見渡して整理する中で考えていたことをお伝えできればと思います。モノを減らしたくても減らせないという人やミニマリスト的な生き方に憧れているという人は、ご参考になれば嬉しいです。

 

 

ミニマリスト的な暮らし方でありたい理由

 

もてるだけのモノで生きていきたい

ぼくは、ミニマリストでありたいと思ったことはありません。というと、どういうこと?と言われてしまいそうですが、これは本当のことで。ぼくが少ないモノで暮らしてゆきたいと思ったきっかけは、ぼくが「小さめの体格」であり「力がない」ことから「沢山の荷物をもてない」という『自分のカラダの特徴』を自覚したことにありました。そのことから「自分に持てるだけのモノで暮らしてゆこう」という生き方の方針につながったのです。

 

そんなことを思うようになってから、ミニマリストという言葉をちらほら聞くようになり、ミニマリストが「自分にとっての豊かな暮らしに必要最低限のもので暮らしてゆく生き方orそういう人」を意味することから、簡単にミニマリストという言葉を使うようになっていきました。

 

僕は引越しをする度に思うのです。今、この重さを背負って、体に負荷をかけながら時間をかけて運んでいる「何か」は、本当に必要なのだろうか?と。今まで本当に必要で使っていたのか?と。引越しという一大事に直面する度に、沢山の人に協力してもらわなければ暮らしを移動することもできない、こんなに小さく軽い自分の、その重たさのなんたるかを思い知るのです。

 

僕は、僕にもてるだけのモノで生きていきたいのです。僕の最終的な目標は、生活に必要な全てを全部背負って歩き、旅しながら暮らすことです。その頃には、車が住まいになってることでしょうけれど。

 

災害ゴミにしたくない

 

台風19号による被害で沢山の災害ごみが出ている。これは、これまでの様々な災害においても同様の2次災害であったと思っています。今までも同じように災害ごみがあったのに、また、出てくる。近頃では、プラスチックゴミの廃棄料がふえてきてしまっていることによって、受け入れを拒否する処理場もあるという時代。そんな時代に、さらなるゴミを生み出してしまう災害がなんども起こっている。それは、地球がとても怒っているからだと兄が言っていたけれど、そんなたとえは、あながち間違っていないと思う。

 

災害ごみの受け入れをストップするというニュースを耳にした。それに対して、被災した方々は「ふざけるな」「私たちの生活はどうなるのよ」という声をあげているのも聞いた。僕は、被災してまで、そんな風にモノに苦しめられたくはない。自分たちが勝手気ままに、私利私欲で買い揃えてきたものが泥にまみれ汚れて使えなくなった途端に「ゴミ」として扱う。そして、そのゴミの処理は政府に任せる。

 

被災の状況うんぬんとは関係なく、そんな風にしてまでモノと向き合うのはごめんだ。被災で失ったモノたちのなかにはとても大切にしていたモノもあったのだと思う。けれど、それ以上に、どうでもいいものが沢山あるんじゃないだろうか。本当に必要なものは何なのか。

 

もっとみんながミニマムな発想で暮らしを営んでいれば、全国各地からボランティアが集まるほどにモノがゴミの瓦礫となることはないのではないだろうか。僕は「いつか災害ごみとなるモノ」をなるべく家に置いておきたくはない。

 

本当に大切だと思えるモノを、この手の届く範囲に置いておきたいと思っている。

 

自分で増やしたモノを整理する時間がもったいない

 

これは、災害がゴミの処理や片付けにおいても言えること。僕たちは、いつの時代もモノに縛られて生きている。モノに基づいて、モノに根付いてと言っても過言ではない。モノ=物理的なものだけではなく、空間的なものも含める。例えば、土地。土地に建てられる家。家で暮らすのに必要な家財。生活をより豊かにする嗜好品。もっと言えば、この体そのものでさえ、そこに含まれるのかもしれない。

 

災害の時、守ることができれば良いのは、結局のところ、この体ひとつだ。この体ひとつあれば、きっと何度だってやり直せる。新しい生活をはじめてゆける。どこでだって。でも、もしその体に、土地や家や家財や嗜好品が紐づいた暮らしがあるのならば、もしも災害に見舞われた時、僕たちはその場所から離れることができない。それがこの社会にいる人のルールだから。自分のものは自分で片付ける必要がある。

 

普段でさえモノを使っていれば散らかる。散らかれば探さないといけない。そのためには時間がかかるから、そうしないために時々、片付ける時間をつくる。やっぱり時間がかかる。体力も必要になる。何より、似たようなモノをもっているときに、どっちを捨てようか悩んでいるときは、本当に嫌になる。結局のところどっちもいらないことの方が多いから。

 

でもそもそも物量がなければ、そういう手間もかからないし、もしも災害があったとしても災害ゴミはないに等しい。カバン一つに暮らしが成立するほどになれば、常に防災バックをもっている状態になる=いつでも被災に対応できるということになる。

 

だから僕は、できるだけものからは放たれた暮らし方がしたいと思うのです。

 

ミニレゾは「自分にもてるだけのもので生きていきたいのです」

こういう意志をひとつ持っているというのは、ミニマリスト的な暮らしをする上でとても大切なことだと思います。ミニマリスト について勘違いされている方も多いですが、ミニマリスト は、持たない暮らしではありません。自分に必要なもの「だけを持つ」暮らしです。あくまで、モノというものがある前提で話が始まっているのです。生活には確かにモノが必要ですし、モノがあるからこそ生活はより豊かになってゆく。ただ、着なくなった服に埃が掛かったまま放置されていることは、生活の豊かさを示すモノではないような気がしています。飽和しているのです。あなた自身に必要な生活をおおきくはずれて、溢れてしまっているのだと思います。

自分にもてるだけのものでいられるなら、その方がいいと僕は思う。つまり、愛情を持って使い続けてあげられるものの量であるかどうかということです。

人から見てもすごい量を使っているなという人でも、まんべんなく使い切っているのであれば、その人もその人に使われるものもきっと幸せです。

 

人もものも役割と行為があってこそ、生きてくるものなのだなあと、部屋を片付けながら思っていたのでございます。

 

 

ミニレゾ