ミニレゾのミカタ

『ニートのいずみくん』の日記的なログ

たった15分の「散歩」が、今日、一番に美しい。

昨日、「リトルフォレスト」を半分寝ながら見た。

だから、とても料理をしたくなったことと、
植物図鑑を眺めたくなったことと、
橋本愛がやたら愛らしかったことくらいしか
覚えていない。


でも、ゆうた、だか、しょうた、だか。
橋本愛が演じるいち子の友達が、
軽トラの中で言っていたことははっきりと覚えてる。

自分自身の身体でさ、実際にやったことと、
その中で感じたこと、考えたこと。
自分の責任で話せるのってそのぐらいだろ?

 

この後にもっといいことを言うんだけど、それは

リトルフォレストを「ちゃんと」見た時まで、とっておきます。

なんだか寝ぼけ眼ながら、思ったわけです。
「予定がなくても、外に出よう」って。

以前からその意識はあったのですが、
考え続けていることが多く、
どうも最近はそんな気分にはならず。
ついついパソコン開いてWordPressの設定したり、
こもって復学の準備をしてしまいがちでした。

そんな中、「リトルフォレスト」を流し見た昨日。
いち子が自転車でゆったりと木々の間を抜けていくシーン。
それを見たとき、気づいたんです。

「そういえば最近、散歩してないな」と。

本日、たった15分ではありますが、
そういうわけで「散歩」してきました。

そうして家に帰り、思ったこと、それが、

「たった15分の「散歩」が、今日、一番に美しい」ということ。

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散歩っていいよね。

僕は、散歩好きです。
なんか、全部から放たれたみたいな感覚で
誰にも干渉されず、誰かに干渉せず。
ただただ歩き続ける。

「こんにちは。」
時には挨拶と微笑みも。

そして自分が思ったその時に、
空を見上げ、木に触れ、花を感じ、土にもたれる。

そこにスーっと、それでいて、じんわりと。
射し込むというよりは
どこまでも包まれる光のカーテン。

オーロラじゃないよ。
もっと大らかな感じ。
見せつけてくる感じじゃない。
ここにいていいと教えてくれる感じ。

そんな陽を感じる、午後の暮れ。

風立つ寒空を裸足で歩いてきました。

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裸足で少し止まってみる。

裸足で少し止まってみる。
すると、小さな空気の塊が素肌をそのままに撫でていく。
何より、じかに草木に触れるのは
少しこしょぐったくて、ひんやりとしてる。
それを感じる。

それに、草履だと硬くなった藁が足の裏に食い込む。
そのかすかな痛みも醍醐味にして
僕は目をつぶり、大きく息を吸う。

そして、はしゃぐ。

 カメラを置いて歩く。

 蹴り上げる。

 草履が飛んでく。

 僕も飛んでおく。

ちょっと寄り道した話をします。

僕が草履を履く理由。

九州物産店で買ったこの草履は僕の相棒。
地球一周の船旅にも一緒に連れて行った。
実は、2代目。

サグラダファミリアの前を
作務衣とこの草履で闊歩したことはまだ忘れてない。

この時期になって、
家族にも、初めて会う人にも言われる。
「寒くないの?」って。

「もちろん、寒いよ。」と、僕は答える。

それでも草履で歩きたい。

いつもというわけではないけど、
僕がそう思った日は、そうするほかない。
だって、草履で歩きたいんだからね。

女性が、レギンスやスパッツを履いてまで
冬にスカートを履きたいのと同じ。
靴を履けばいいのに、
無理にでも歩きにくいハイヒールを履くのと同じ。

そのくらい僕にとっては当然のこと。
僕だってできることなら足袋くらい履いても
損はしないだろうと思う。
でも、もっていないんだから仕方がない。
ないものはないからね。

それこそ、スコットランド人がスカートに似た
「キルト」という衣装を着ているように、
日本という社会が奇異に僕を見たとしても、
それを日常にして暮らしてみたいとは
随分と前から思ってる。

寒くないとは思わないし、
日本でスカートが変と、思わないわけじゃあない。
でも、それ以外の価値観を僕はもちあわせている。
ただそれだけの話。

それが、僕が(冬に)草履を履く理由。

ふたたび、思った事を書いていきます。

 垣間見える、日常。

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さっきはしゃいでたのも、ここ。
さっきは東を向いていて、この写真は西を向いてる。

 

ここは近所のグラウンド。
川べりにあって、船が並んでいるのが見える。
今はよく知らないけど、
週末には町内会や社会人チームが試合をしてることだろう。

ベンチに座って応援する人。
堤防の上から応援する人。
お母さんやお父さんが作ったご飯をみんなで食べる。
汗をかいた体を潤す水分を、ゴクリと。

スポーツはなんだっていい。
きっとそこには愛が溢れていると。
そう感じることが大切だから。

監督たちの怒号だって聞こえてくるかも。
忘れものをしたことを責めちゃうかも。
できなかったことに悔しさを覚えるかも。
できたことに慢心してしまうかも。
誰かに怪我をさせてしまうかも。

それが視える。
想像でしかなくとも。
きっと、そんなことがここで何度も何度も
「あった」のだろうと、思う。

すれ違う車、お互いの場所。

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僕は、車と人は対等だと思っています。

この写真は、ちょうど、さっきの写真のガードレールと同じ位置。
ここは堤防で、東にはグラウンド、西には貯水がある。

広くも狭くもない堤防に続くコンクリートの道。
その上を車が走る。もちろん、人も歩く。
自転車もバイクも。
ときには、スケボーなんかも。

そんな道でも、車と人は対等だと思う。

突然何を言い出すのかと思ってるかもしれないけど、
僕は歩いている時もその意識はずっとある気がしてるから。

確かに、車と人がぶつかる事を思えば、
車と人に優劣が出てくるかもしれない。
物理的な「頑丈さ」ということもあるし、
どちらがどれだけ「悪いか」という話にもつながる。
確かに、対等じゃあない。

でも、結局はさ。
車を動かしてるのも「人」だよ。
と、僕は思うし、それが本当。

それに道路ってのは、人と車の通路のこと。
だとしたら、車にクラクションを鳴らされる筋合いは、ない。

僕が歩いていい時は、僕の速さで歩きたい。
それは誰にも邪魔されたくない。
それが散歩ってものだもの。
これって、きっと伝わるはず。
今のところ、人工知能じゃあるまいし。

社会の中のルールなんて関係なく、
お互いがお互いの位置する場所を知りながら、
それぞれの路を往くことができたらいいのになあ。

多分、きっと僕はここ。

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このゴムのようなものは、いつからあるんだろう。
砂山は前からあったように記憶してるけど、
「あの砂」は、いつから山になったんだろう。

この風景を見たときに、
なんだか随分と時間が過ぎたように感じた。
きっと誰にもわからない感覚。
その瞬間、その一瞬だけ、分かる感覚。

それ以上の言葉で説明できないけど、
きっと誰しもが感じたことがあるか、
これから感じることになる感覚だと思う。

西から灯る包まれるような光の足とは対照に、
なんとも輪郭をもつ色にあふれた風景。

多分、きっと僕はここ。
「太陽を目指せ」と。GLIM SPANKYの声がきこえた。

散歩をすると、そんな景色にであうことがある。
他の人には理解できないけど、
なんとも自分には素晴らしく思える
誰からみても魅力のない景色に
心を踊らせる瞬間が、心がおさまる瞬間が。

太陽を目指す。

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家から川に架かる橋を渡って堤防に続く道を進む。
カメラを構えて、こう思う。
「もっと目で見ようよ」って。

あえて「眼」と書いたり「瞳」と書いたりしない。
この時は、もっと直接的に、そう思ったから。

心とか気持ちとかじゃなくて、
もっと衝動的なもの。
気持ちが動くよりも、もっとたゆむようにゆったりと
それでいて気持ちより先にある動き。

それに従い、車と人の距離を感じながら。
心に笑いと怒号と愛を感じながら、
指先にひんやりとした空気に、こしょぐったさを感じながら。
藁に食い込む足裏にかすかな痛みを感じながら。

僕は太陽を目指す。
不安定で、不器用で、それでいて明瞭で。
でも、矛盾をいくつも孕んだ、この僕の人生の中に、今日。
美しい15分があったと感じた時。
一歩ずつ踏み出した散歩の先に、

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太陽を見つけた。

 

 

 

 

またね。

僕が生きる意味は「ただ暮らす」ところにあります。

僕がどう生きて生きたいかを書いています。

 

僕は働いたことがありません。

僕は働いたことがありません。
今年22歳になる随分な大人ですが、
正社員や役員など責任のある働き方をしたことがありません。
働いたといえば、パソコン教室で3ヶ月ほど先生をしていたことと、
テーマパークで4か月ほどホットスナックの提供をしていたくらいです。

そのおかげで、パソコンに関する知識はそれなりにありますし、
とりわけ機械関係のことに抵抗はありません。
テーマパークでは連休に人がごった返しますから、
僕がちょうど入っていたゴールデンウィーク中の
かき氷の売れ行きはすごいもので、綺麗な山にすることに責任はもてます。

だから、いざ働き口がないとなれば、パソコン教室で先生はできるかも。
でも、今時の小学生はプログラミングを学んできてるから、
そのあたりの高度な知識をつける必要はありそうですが。
でも、もしパソコン教室が無理でも大丈夫です。
かき氷屋さんで働かせてもらいましょう。

今時のかき氷屋さんは、氷の暖簾を掲げてチリンチリンとする
僕の大好きな昭和の香りがする感じではなくなってきました。
かき氷は夏の風物詩ではなく、季節を越えて冬はもちろん、
年がら年中食べられるようになっているんです。

これなら、いつでも働き口はありそうです。

と、まあ、こんな感じです。
できることはありますし、こうして動く口も働き口もあるのに
いつもいつも口ばかり。そこに行動はありません。

なんでかといえば、
僕は働くことに適応してないから、ということになります笑(どーん)
言い換えるなら、働くことへのモチベーションがないんです笑

 

働くことへのモチベーションがない自分

高校生の時によく言われました。
「あんたバイトしんの?」「バイトしてないのに….」とね。
でも、僕はバイトしませんでした。
というか、しようとはしませんでした。
パソコン教室のバイトも全く意欲的ではありませんでした。

どうしてかっていうと、
ただ単に、「外に出たくなかったから」です。
それは22歳を前にした今も変わっていません。
そして、今もアルバイトもせず実家に寄生しています。

「ただの陰キャラじゃん」と鼻で笑われそうだけど、
全くその通りだと思ってます笑
でも、僕にはそれの何が悪いか分からなかったので
随分と前からそれを受け入れながら生きてきました笑
おかげ様で今では地元で唯一の「地球一周の船旅をした人」です笑

雨の日にやりたくもない「仕事」をするために
決まった時間に決まった場所に行って
誰の役に立っているかも分からないことをする。
「バイトも経験の1つ」とよく言われましたが、
僕にはそこで得られる経験に価値を見出せませんでした。

それに「お金を稼ぐ」ことへの抵抗がありました。
どれだけパソコン教室で高度な内容で生徒さんと友好な関係になって
毎回笑いながら仕事をしていても、その仕事ぶりに
自分への報酬が見合っていない気がしていたのです。
それは「少ないじゃあないか」ということではなく「こんなにもらっていいのか」と。

 

お金の必要性のなさ

そこには僕のお金を使うことへの抵抗感もありました。
というより、そもそも僕はお金の必要性を感じてなかったように思います。
裕福な家庭に生まれて何不自由なく育ったという家庭です。
でもそれは、僕が何でも買ってもらえて、好きなものを食べて、
欲しいものを好きなだけ手に入れることができた、ということではありません。

時に、両親が家に帰ってこない日も
兄弟で歳が離れていることから一人っ子のような
孤独感に苛まれていた日々もありました。
僕個人としては、結構辛いものがありました。
しかも、それを直接家族にいう勇気もありませんでしたからね。

でも、そんな中でも僕は何の不自由もありませんでした。
なぜなら、そもそも僕自身に「お金を必要とする欲求」がなかったんです。
全くなかったとまでは言いませんが、
他人に比べて少なかったように思います。
それに、お菓子を買うだとか、間食を食べる、外食をするなどはほぼなかったです。

もし、僕が欲しいものを買うときは、
小さなお小遣いをじっくりじっくり貯めて
大きいものを買う方がよっぽど嬉しかったです。
それで買ったニンテンドーDSiPod classic
僕の子ども時代を十分に充実させてくれるものでした。

だから、僕は僕の手元にあるだけのもので
どうやってやりくりしていくか。
どうしたら、これであの大きなものが買えるのかを考えてました。
数少ないパソコンのバイトやテーマパークでのバイトも
必要以上にシフトを入れることはしませんでした。

お金があればきっと消費することはできましたが、
消費したいものがないのに、
お金を稼ぐ、つまり働くことに理由を見出せなかったのです。

 

流れていくものに全く関心がありませんでした。

中学生の時も、高校生になってからも、
そして大学生に入ってからも、
ファッションなんてものには全く関心がありませんでした。
まあ多少、外に気を使うことはありましたが、
新作がどうだとか最近はあれが流行っているから
というのは全くついていけなかったです。

最近流行っているゲームはどうとか
マリオカート一緒に買おうぜみたいなことも
楽しそうだったし、実際やらせてもらったことはあったけど、
自分で買いたいかと言われれば全然欲しくありませんでした。
それよりかは1つのゲームをずっとやっている方が僕にはあってました。

だから、そういう流れの速いものへの関心がなかったぶん、
僕以外の人より「お金の必要性」が低かったことにも繋がるかもしれません。

ファッションに関心があると美容にも関心をもつし、
靴、パンツ、アウター、アクセサリー、手袋、帽子…….などなど
もう幅広い分野への関心になってくるし、それが広がれば広がるだけ、
お金の必要性が高くなってくる。それに、ファッションは流れ行くもの。
だから、また新しいものが欲しくなって、お金の必要性がどんどんと増す。

そのサイクルに入らなかったのことに、
今の自分からあの頃の自分にお礼が言いたいくらいです。
僕は、そんな消費のサイクル、御免ですからね。

それに、そのために働くなんてのも御免です。

 

僕が必要とするお金とは。

それは、ただ流れていく流行やファストフード・ファストファッション
追いかけていくためだけのお金、
実は必要としていないのに、周囲の影響で欲しいとさせられた
虚構の欲求を満たすためのお金への必要性は
僕の中に全くと言っていいほどありません。

ただ、深い意味での憧れからくる
自分の位置を高めるための物欲は時々、あります。
でも、自分のできる範囲で補おうとするのが大半です。

では、何のためのお金が必要か、ということです。

それは、暮らすためです。

 

生きるということの無力感

人が生きるということに理由なんてありません。
理由なんてないんです笑
だから、人が生きるということは大変なんだと思います。

動物や植物や多くの自然がどんな脈絡で生まれ
何のために生きているのかをそれぞれが考えているとしたら
ぜひ聞かせて欲しいくらいで、
おそらく、この世に生きる命は、
生きているということに意味を見出せていないと思います。

生きていることに意味が見出せないことの
無力感といったら、きっと苦しいものだと思います。

とても身近なことで言えば、
普段働いている人が連休で今日はOFFデイといって
家の中にいるだけだと、何かやることはないかと探してしまったり、
友人らと「なんかそわそわしちゃうよね笑」と話をするのもそのためです。
何か目的をもって動いていないと人はある種の強迫観念に襲われるのです。

「働かなきゃ」と。

だからこそ、「あの人を笑顔にするために働いている」とか
「苦しいこともいっぱいあるけど、ありがとうの一言があるから」とか
「めちゃくちゃ難しいけど自分を高めていくことがやりがいですかね」とか
人は何かしらの意味を見出しながら生きているわけです。
対称に、それを見出せなかった人が自殺していくとも考えられます。

だから、「どうして自殺なんかしたの?」という疑問は
まったくその人を理解できていなかった証拠だし、
その人にとってみれば、「人はどうして生きているんだろう」という
何とも不気味な疑問も、あって当然ということですが、
それを誰も理解してやれないのも現実です。

なぜなら、それを聞かれた人は生きる理由を見つけているんですから。

 

生きることは、働くことではないと、僕は思います。

人は生きることと働くことを混同して考えています。
と、僕は思います。
働いている人がそれで納得しているならいいですが、
「そのために働いている」ということを「そのために生きている」
ということに置き換えて言うのはどこか勘違いを孕んでいるようです。

僕にとって、働くことと、生きることは別のことですから。
働くことがない人が何を言ってるんだって?
ええその通りです。でも今だから言わせてください。
僕は、働くことのために生きていきたいわけじゃあないんだということを。

たとえ人が生きがい、つまり生きていることの理由を
働くことで満たすのだとしても、そこに意味を見出すのだとしても、
僕はそこに生きることの意味を見出すことはできないのです。

なぜなら、僕が生きていくことの意味は
「ただ暮らす」ところにあるからです。

 

僕が生きる意味は「ただ暮らす」ところにあります。

人が、1日の大半を住まいの外で過ごしているのはなぜでしょうか。
なぜ毎月、何万円もかけて保持している住まいにいる時間の大半が
「寝る」という行為のためだけなのでしょうか。

ええわかります。
「働くため」です。働くために外に出ます。

「じゃあ、お前はお金はどうするんだ」
「生きていくためにはお金が必要で、お金を稼ぐには働くことが必要になる!」

ええそうです。
だから僕は、自分が暮らすための働きはするつもりです。

でもそれは、社会のために役に立つかどうかは別にして、
少なくとも僕が生きていく知恵として必要になることが
学べる場所で働きたいと思っています。
僕が暮らすことに必要な知恵が学べる場所です。
かつ、僕の暮らしを阻害しないものです。

そもそも、人が働く必要なんてないはずなんです。
もちろん働きは必要ですが、それは賃金労働ではありません。
みんなで食料を確保して生きていく方法を互いに実践していくことが
本来は最も大切なことなんです。
それを、みんな忘れているんだと僕は思います。

僕の暮らしは、ただ平凡なものです。
ずば抜けて裕福でもなく、ずば抜けて貧しくもない。
そのくらいが僕の理想の暮らしであり、
その暮らしを新しい発見と出会いを繰り返しながら
維持していくことが、僕の生きていく意味なんです。

 

フィクションに生きる僕ら。

そんなことを思ったのは、
この世界がフィクションばかりでできていることを知ったからです。
この世界は、実体のないものばかりです。
そのくせして、正解と正義を求めています。
それすらも実体がないのに、です。

友人に「自分は就職するつもりは全くないんだよ」と言ったら、
「例えば、もし結婚するってなったらどうするんだよ。養っていけるのか?」
と、言われたことがあります。

確かにこの年齢になれば、そういう話も出てきます。
それは分かります。
でも自分が将来結婚するかもしれないという未知数に左右される今は、
本当に有意義な選択をしていると言えるんだろうか、と。
ともすれば、結婚、有意義な、選択。

それらも、得てして、フィクションに過ぎないのに、です。

僕が就職しないことと、僕が結婚するかどうかに全く関連はありません。
それを「お金」で結びつけようとするから不毛なんです。
お金なんてのは「ただの紙切れ」で、
人が価値があると信じているから成り立っているものです。

あえて、フィクションという世界観で話すなら、
そのただの紙切れがあるだけで、結婚のゆくえが左右されるはずがない
ということは言っておきたいと思います。

なぜなら、互いにみているフィクションも違うからです。
たまたま相談した友人と僕が見ているフィクションはそれぞれ違った。

そして、彼のフィクションは、
お金があった方が結婚した時に安心だというもの。
対して、僕のフィクションは、
お金がなくて結婚しても、暮らしがあるならそれでいいというもの。

僕は「もしも自分が結婚する時に十分なお金がなかったらどうしよう….
なんていう不安を安心に変えるための準備よりも、
自分の生き方が誰かに共感して、その人とともに
少ないかもしれないけど、その小さな時間を暮らしていく方がずっといい。

と、僕は思うのです。

 

最後に。

色々と書きましたが、とにかく僕は、
「ただ暮らす」ために生きていきたいということです。
ここに書いたことはぼんやりした内容のものばかりですが、
具体的な計画も着々と、考えています笑
それについてはまた今度にします。

できることなら、クラウドファンディングで始めてみたいものです笑

では、またね。