ミニレゾのミカタ

『ニートのいずみくん』の日記的なログ

僕が生きる意味は「ただ暮らす」ところにあります。

僕がどう生きて生きたいかを書いています。

 

僕は働いたことがありません。

僕は働いたことがありません。
今年22歳になる随分な大人ですが、
正社員や役員など責任のある働き方をしたことがありません。
働いたといえば、パソコン教室で3ヶ月ほど先生をしていたことと、
テーマパークで4か月ほどホットスナックの提供をしていたくらいです。

そのおかげで、パソコンに関する知識はそれなりにありますし、
とりわけ機械関係のことに抵抗はありません。
テーマパークでは連休に人がごった返しますから、
僕がちょうど入っていたゴールデンウィーク中の
かき氷の売れ行きはすごいもので、綺麗な山にすることに責任はもてます。

だから、いざ働き口がないとなれば、パソコン教室で先生はできるかも。
でも、今時の小学生はプログラミングを学んできてるから、
そのあたりの高度な知識をつける必要はありそうですが。
でも、もしパソコン教室が無理でも大丈夫です。
かき氷屋さんで働かせてもらいましょう。

今時のかき氷屋さんは、氷の暖簾を掲げてチリンチリンとする
僕の大好きな昭和の香りがする感じではなくなってきました。
かき氷は夏の風物詩ではなく、季節を越えて冬はもちろん、
年がら年中食べられるようになっているんです。

これなら、いつでも働き口はありそうです。

と、まあ、こんな感じです。
できることはありますし、こうして動く口も働き口もあるのに
いつもいつも口ばかり。そこに行動はありません。

なんでかといえば、
僕は働くことに適応してないから、ということになります笑(どーん)
言い換えるなら、働くことへのモチベーションがないんです笑

 

働くことへのモチベーションがない自分

高校生の時によく言われました。
「あんたバイトしんの?」「バイトしてないのに….」とね。
でも、僕はバイトしませんでした。
というか、しようとはしませんでした。
パソコン教室のバイトも全く意欲的ではありませんでした。

どうしてかっていうと、
ただ単に、「外に出たくなかったから」です。
それは22歳を前にした今も変わっていません。
そして、今もアルバイトもせず実家に寄生しています。

「ただの陰キャラじゃん」と鼻で笑われそうだけど、
全くその通りだと思ってます笑
でも、僕にはそれの何が悪いか分からなかったので
随分と前からそれを受け入れながら生きてきました笑
おかげ様で今では地元で唯一の「地球一周の船旅をした人」です笑

雨の日にやりたくもない「仕事」をするために
決まった時間に決まった場所に行って
誰の役に立っているかも分からないことをする。
「バイトも経験の1つ」とよく言われましたが、
僕にはそこで得られる経験に価値を見出せませんでした。

それに「お金を稼ぐ」ことへの抵抗がありました。
どれだけパソコン教室で高度な内容で生徒さんと友好な関係になって
毎回笑いながら仕事をしていても、その仕事ぶりに
自分への報酬が見合っていない気がしていたのです。
それは「少ないじゃあないか」ということではなく「こんなにもらっていいのか」と。

 

お金の必要性のなさ

そこには僕のお金を使うことへの抵抗感もありました。
というより、そもそも僕はお金の必要性を感じてなかったように思います。
裕福な家庭に生まれて何不自由なく育ったという家庭です。
でもそれは、僕が何でも買ってもらえて、好きなものを食べて、
欲しいものを好きなだけ手に入れることができた、ということではありません。

時に、両親が家に帰ってこない日も
兄弟で歳が離れていることから一人っ子のような
孤独感に苛まれていた日々もありました。
僕個人としては、結構辛いものがありました。
しかも、それを直接家族にいう勇気もありませんでしたからね。

でも、そんな中でも僕は何の不自由もありませんでした。
なぜなら、そもそも僕自身に「お金を必要とする欲求」がなかったんです。
全くなかったとまでは言いませんが、
他人に比べて少なかったように思います。
それに、お菓子を買うだとか、間食を食べる、外食をするなどはほぼなかったです。

もし、僕が欲しいものを買うときは、
小さなお小遣いをじっくりじっくり貯めて
大きいものを買う方がよっぽど嬉しかったです。
それで買ったニンテンドーDSiPod classic
僕の子ども時代を十分に充実させてくれるものでした。

だから、僕は僕の手元にあるだけのもので
どうやってやりくりしていくか。
どうしたら、これであの大きなものが買えるのかを考えてました。
数少ないパソコンのバイトやテーマパークでのバイトも
必要以上にシフトを入れることはしませんでした。

お金があればきっと消費することはできましたが、
消費したいものがないのに、
お金を稼ぐ、つまり働くことに理由を見出せなかったのです。

 

流れていくものに全く関心がありませんでした。

中学生の時も、高校生になってからも、
そして大学生に入ってからも、
ファッションなんてものには全く関心がありませんでした。
まあ多少、外に気を使うことはありましたが、
新作がどうだとか最近はあれが流行っているから
というのは全くついていけなかったです。

最近流行っているゲームはどうとか
マリオカート一緒に買おうぜみたいなことも
楽しそうだったし、実際やらせてもらったことはあったけど、
自分で買いたいかと言われれば全然欲しくありませんでした。
それよりかは1つのゲームをずっとやっている方が僕にはあってました。

だから、そういう流れの速いものへの関心がなかったぶん、
僕以外の人より「お金の必要性」が低かったことにも繋がるかもしれません。

ファッションに関心があると美容にも関心をもつし、
靴、パンツ、アウター、アクセサリー、手袋、帽子…….などなど
もう幅広い分野への関心になってくるし、それが広がれば広がるだけ、
お金の必要性が高くなってくる。それに、ファッションは流れ行くもの。
だから、また新しいものが欲しくなって、お金の必要性がどんどんと増す。

そのサイクルに入らなかったのことに、
今の自分からあの頃の自分にお礼が言いたいくらいです。
僕は、そんな消費のサイクル、御免ですからね。

それに、そのために働くなんてのも御免です。

 

僕が必要とするお金とは。

それは、ただ流れていく流行やファストフード・ファストファッション
追いかけていくためだけのお金、
実は必要としていないのに、周囲の影響で欲しいとさせられた
虚構の欲求を満たすためのお金への必要性は
僕の中に全くと言っていいほどありません。

ただ、深い意味での憧れからくる
自分の位置を高めるための物欲は時々、あります。
でも、自分のできる範囲で補おうとするのが大半です。

では、何のためのお金が必要か、ということです。

それは、暮らすためです。

 

生きるということの無力感

人が生きるということに理由なんてありません。
理由なんてないんです笑
だから、人が生きるということは大変なんだと思います。

動物や植物や多くの自然がどんな脈絡で生まれ
何のために生きているのかをそれぞれが考えているとしたら
ぜひ聞かせて欲しいくらいで、
おそらく、この世に生きる命は、
生きているということに意味を見出せていないと思います。

生きていることに意味が見出せないことの
無力感といったら、きっと苦しいものだと思います。

とても身近なことで言えば、
普段働いている人が連休で今日はOFFデイといって
家の中にいるだけだと、何かやることはないかと探してしまったり、
友人らと「なんかそわそわしちゃうよね笑」と話をするのもそのためです。
何か目的をもって動いていないと人はある種の強迫観念に襲われるのです。

「働かなきゃ」と。

だからこそ、「あの人を笑顔にするために働いている」とか
「苦しいこともいっぱいあるけど、ありがとうの一言があるから」とか
「めちゃくちゃ難しいけど自分を高めていくことがやりがいですかね」とか
人は何かしらの意味を見出しながら生きているわけです。
対称に、それを見出せなかった人が自殺していくとも考えられます。

だから、「どうして自殺なんかしたの?」という疑問は
まったくその人を理解できていなかった証拠だし、
その人にとってみれば、「人はどうして生きているんだろう」という
何とも不気味な疑問も、あって当然ということですが、
それを誰も理解してやれないのも現実です。

なぜなら、それを聞かれた人は生きる理由を見つけているんですから。

 

生きることは、働くことではないと、僕は思います。

人は生きることと働くことを混同して考えています。
と、僕は思います。
働いている人がそれで納得しているならいいですが、
「そのために働いている」ということを「そのために生きている」
ということに置き換えて言うのはどこか勘違いを孕んでいるようです。

僕にとって、働くことと、生きることは別のことですから。
働くことがない人が何を言ってるんだって?
ええその通りです。でも今だから言わせてください。
僕は、働くことのために生きていきたいわけじゃあないんだということを。

たとえ人が生きがい、つまり生きていることの理由を
働くことで満たすのだとしても、そこに意味を見出すのだとしても、
僕はそこに生きることの意味を見出すことはできないのです。

なぜなら、僕が生きていくことの意味は
「ただ暮らす」ところにあるからです。

 

僕が生きる意味は「ただ暮らす」ところにあります。

人が、1日の大半を住まいの外で過ごしているのはなぜでしょうか。
なぜ毎月、何万円もかけて保持している住まいにいる時間の大半が
「寝る」という行為のためだけなのでしょうか。

ええわかります。
「働くため」です。働くために外に出ます。

「じゃあ、お前はお金はどうするんだ」
「生きていくためにはお金が必要で、お金を稼ぐには働くことが必要になる!」

ええそうです。
だから僕は、自分が暮らすための働きはするつもりです。

でもそれは、社会のために役に立つかどうかは別にして、
少なくとも僕が生きていく知恵として必要になることが
学べる場所で働きたいと思っています。
僕が暮らすことに必要な知恵が学べる場所です。
かつ、僕の暮らしを阻害しないものです。

そもそも、人が働く必要なんてないはずなんです。
もちろん働きは必要ですが、それは賃金労働ではありません。
みんなで食料を確保して生きていく方法を互いに実践していくことが
本来は最も大切なことなんです。
それを、みんな忘れているんだと僕は思います。

僕の暮らしは、ただ平凡なものです。
ずば抜けて裕福でもなく、ずば抜けて貧しくもない。
そのくらいが僕の理想の暮らしであり、
その暮らしを新しい発見と出会いを繰り返しながら
維持していくことが、僕の生きていく意味なんです。

 

フィクションに生きる僕ら。

そんなことを思ったのは、
この世界がフィクションばかりでできていることを知ったからです。
この世界は、実体のないものばかりです。
そのくせして、正解と正義を求めています。
それすらも実体がないのに、です。

友人に「自分は就職するつもりは全くないんだよ」と言ったら、
「例えば、もし結婚するってなったらどうするんだよ。養っていけるのか?」
と、言われたことがあります。

確かにこの年齢になれば、そういう話も出てきます。
それは分かります。
でも自分が将来結婚するかもしれないという未知数に左右される今は、
本当に有意義な選択をしていると言えるんだろうか、と。
ともすれば、結婚、有意義な、選択。

それらも、得てして、フィクションに過ぎないのに、です。

僕が就職しないことと、僕が結婚するかどうかに全く関連はありません。
それを「お金」で結びつけようとするから不毛なんです。
お金なんてのは「ただの紙切れ」で、
人が価値があると信じているから成り立っているものです。

あえて、フィクションという世界観で話すなら、
そのただの紙切れがあるだけで、結婚のゆくえが左右されるはずがない
ということは言っておきたいと思います。

なぜなら、互いにみているフィクションも違うからです。
たまたま相談した友人と僕が見ているフィクションはそれぞれ違った。

そして、彼のフィクションは、
お金があった方が結婚した時に安心だというもの。
対して、僕のフィクションは、
お金がなくて結婚しても、暮らしがあるならそれでいいというもの。

僕は「もしも自分が結婚する時に十分なお金がなかったらどうしよう….
なんていう不安を安心に変えるための準備よりも、
自分の生き方が誰かに共感して、その人とともに
少ないかもしれないけど、その小さな時間を暮らしていく方がずっといい。

と、僕は思うのです。

 

最後に。

色々と書きましたが、とにかく僕は、
「ただ暮らす」ために生きていきたいということです。
ここに書いたことはぼんやりした内容のものばかりですが、
具体的な計画も着々と、考えています笑
それについてはまた今度にします。

できることなら、クラウドファンディングで始めてみたいものです笑

では、またね。