ミニレゾのミカタ

『ニートのいずみくん』の日記的なログ

他人軸と自分軸、西の村と東の村

一緒にコーヒーとマフィンのモーニングを堪能した友人が「他人軸と自分軸」の話をしてくれた。友人は、どちらかといえば、他人軸で動くことが多いみたい。他人軸で生きるっていうのは、自分がこうしたいとか、ああしたいと思ったことをやるのではなく、周囲の人たちから「こういうのは好きだよね?」とか「あれめっちゃ得意だよね?」という評価に自分を信じこませて、生きること。僕も、それに近い生き方をしている気がする。周りの人たちから預かる言葉を信じて、それを信じ込んで、まるで本当に心からそう思って動いてるかのように錯覚して何かしている。たしかに楽しさややりがいを感じることはあっても、それはいつでも本当じゃなくて、どこか違和感を感じながら、このままでいいのかななんて思いながら過ごしていることも。反対に、自分軸っていうのは、自分がこうしたいと思ったことをやっちゃえる軸をもって生きること。そんな風に生きられたらどんなにいいかと思う。

 

友人は、珈琲屋さんの子どもたちが、自分の欲求を主張するために泣きわめき騒ぎ立てて暴れまくる姿をみて、自分軸ってこういうことかもしれないって感じて、この話をしてくれた。子どもたちが自分軸で泣きわめいて生きてみても、子どもは、そうでしかいられない存在だと社会が理解しているから、きっと成立しているのかもと思う。大人とみなされる人が同じように泣きわめけば冷ややかな目が心をえぐる。泣きわめかず冷静に判断し他人に意思を伝えられるよね?と、理性という障害に阻まれる。だからきっと、大人には大人の自分軸があるのかもしれない。同じような自分軸をもつ人と一緒にいれば、いや自分軸じゃなくとも同じような他人軸をもっていれば、たとえ泣きわめいても、笑って頬に手を当て、心と心の手当てをして、涙を拭ってくれるのかもしれない。

 

他人軸で気づいて出会った「今やっていること」があるなら、今はそれに向き合っているといい。もしうまくできそうなら、他人軸で息しつつも自分軸を見つけられるのなら、それを少しずつ形にできるといいね。そしたらいつしか、自分軸がホンモノになる。その日がいつくるのかは分からないけれど、それを信じて信じて信じて信じて、いきてゆくのだ。

 

だから友人。そのままでいいから、オーストラリアを目一杯思う存分、楽しんできてくださいね。

 

ついでにもう1つ。

 

とあるプロの和太鼓奏者から聞いた、モラロジーという学問の話。

西の村と東の村の話。

 

西の村は、自分のことだけを考えて暮らす人たちだけが住む村。そして、東の村は、他人のことだけを考えて暮らす人たちだけが住む村。西の村の住人らは、よく喧嘩をするらしく、東の村の住人らは、とても友好的な関係で生活をしているという。

話によると、そういう設定らしく、どちらの村に関しても一体どんな営みがあるのか定かではない。

そして年に一度だけ、その村同士の交流会があるらしい。一見、気の合わない2つの村の住人同士の交流会が一体どんなものになるのか。和太鼓奏者は少し微笑みながら「どう思う?」と尋ねてきた。

そして答えを言った。

「とても仲良くするんです。」と。

どういうことかというと、自分のことだけを考えている西の村の住人だけでは喧嘩は絶えないけれど、東の村の住人が他人のことだけを考えて動いているから、つまり、西の村の住人のことを考えて動くから互いに心地よいのだという。

 

先ほどの軸の話をすれば、きっと、どちらの住民も互いに自分軸をもってる。自分を思う自分軸と、他人を思う自分軸。

 

自分軸は、自分のことだけを思う軸ではないし、他人軸がいつだって他人任せな軸でもない。言葉は難しくてこんがらがってしまうけれど、何はともあれ、自分が心地いいならそれでいい。

 

誰が何を言おうと、自分が心地いい軸を生きられるなら、それが一番いい。

友人は今日、そのことに改めて気づかせてくれた。

 

ありがとう。