『何もしない=生産性のないことをする』ということなのかな。
問答のようなお話です。
つまるところ、僕が心地よいかたちでのんびり過ごせることが、僕にとっては「何もしない」ということなのでしょうね。
「何もしない」をするは、する。
ぼーっと部屋にいる。開いた窓からはひんやりとした風が抜けて、レースのカーテンは光を魅せながら揺れている。僕は仰向けに寝転んでいて、向こう側の青を見ている。いつもより長く青を見ていることができるのは、「何もしない」を意識できているからなのでしょうか。
「何もしない」自分は、存在していて
「何もしない」自分は、寝転んでいて
「何もしない」自分は、青を見ていて
「何もしない」自分は、「何もしない」と意識している。
「しない」をするは、するなのか。
「何もしない」をしようとすればするほど〈する〉になっていく。「何もしない」を意識するほど、問答みたいな、哲学みたいなお話になってきました。
反対に、「する」をしないは、しない。なのかな。
もしそうなら、僕がしないと決めたい「する」は、なんだろうか。
『何もしない=生産性のないことをする』ということなのかな。
僕が青を見ていることも、ど平日に寝転んでいるのも、働いている人からすれば「生産性のないこと」で、「何もしない」人ってことなんだろうね。
『どーせ暇なんでしょ?』って最近よく言われるようになったけれど、暇=何もしてない・することがないっていう価値観の前では、僕がどんなことを考えたところで、何をしたところで、「何もしない」人であることには変わりがないのかも。
ただ、それはあくまでも、他人から見た時の話だと思う。
他人からしたら僕がしていることは「生産性のないこと」だし何もしていないって思われることかもしれない。
それでも、
青を見ることは僕の心を落ち着かせてくれていて、
寝転んでいることは呼吸を整えて体を休ませてくれているし、
「何もしない」を意識することで普段の「する」に気づかせてもらえてる。
そうやって感じられることで、存在していることを確かめる。
ああ、生きてるんだって思える。
そうやって、僕は明日を生きる力を得る。
その力で生きていく。
無理に無茶に、何かをする必要は全くない。
「何もしない」という選択を〈する〉ことも良い。
そのことに「生産性がない」とは、どうしても思えないのさ。
「何もしない」ってのは、自分の心体と対話して休めるということ
なのかもしれないなあって、記事を書きながら思いました。
「何もしない」を求めているということは、〈する〉がいっぱいいっぱいだってこと。しすぎてるんだ。しすぎちゃって疲れてるっていうサインなんだね。
「何もしない」ってのは、〈自分の心体と対話して休む〉を「する」ことで、自分を疲れさせてしまうような〈する〉を「しない」ってことなんだろうな。
心体を休める方法は、人それぞれ。
自分にとって心地よくて体が休まる〈する〉を知っていきたいし、そして、心体が疲れていってしまうような〈する〉を知っていきたい。きっと、疲れちゃう〈する〉をしないことが「何もしない」ってことなんだろうなあ。
はー、おなかすいた。
今日は、料理やめてみようかな。
ミニレゾ