めがねがこわれて、ぼやけた世界を過ごしたら。
めがねがこわれました。
めがねをはずして寝て
朝起きたら、ひしゃげてるめがね。
おどろき
ももの木
さんしょの木
直そうとしたら左のツルが折れて、しばらくは右のツルだけを耳にかけて過ごすことになりました。
めがねとしての機能は、ツルが一本残ってれば十分にあったので、全く問題はありませんでした。あえて言うなら、下を向いた時にずれ落ちてくることくらい。下向きにお仕事する方には大変かも。
それから数日後。
めがねをはずして寝て
朝起きたら、ひしゃげてるめがね。
右のツルがありえない角度で踊っていました。直そうとしたら、案の定、折れてしまい…。
鼻あてだけでは、
落下することやむなし。
というわけで、
ぼやけた世界をすごしたら。
僕が思っていたよりも生活には支障なくて、むしろ、めがねをかけていた時の〈くもり〉みたいなものがとれて、世界は明るかったような気がしています。
ぜんぶがぼやけているから、本当に自分が見たいものだけが見れる。見たいものがあれば、それを見るためだけにぐいっと体を動かそうとする。そうしちゃう。近くじゃないと見えないからね。必然的に体が動きます。これはとてもよいことだと、僕は思っています。
見たいものを見ようとするから動く。
これはとてもよいこと。
ただ、目に見える世界すべてがぼやけていると何が起こるかっていうと、とても美しい夕日も、木漏れ日も、空も、緑も、大切な人のことも、文字もブログも動画も、ぜんぶがぼやけちゃうってこと。
その分、相手の表情ひとつに忖度することもないし、考えすぎちゃうこともない。
でも、そこにある感動も喜びも悲しみも憂いも、怒りも、寂しさも、ぜんぶがぼやけちゃうってことは、なんだかとても.....。
一週間、そんなぼやけた世界を過ごしたら。
やっぱりめがねが欲しくなった。
やっぱり景色を眉間にシワ寄せることなく眺めて感動したい。
やっぱり愛する人の表情に一喜一憂するのもいい。
ぼやけた世界、あいまいな世界もすてき。
それでもやっぱり、見えるって素晴らしいよなあ。
そして今は、コンタクトレンズを。
すべてがパチーンとくっきり見えるんですね。
なんだかHDRの写真みたいに。くっきり。
でも、常に目に何かついてる感じがする。
夜になると目がしばしばしてくる。
つけるときは痛いし、取るときも痛くて。
おめめまっか。
やっぱりめがねほしいな。
めがねないほうが自由だけど、やっぱりめがねほしいな。
【編集後記】
めがねがこわれたのは、ちょうど、僕が一大決心をする前の日のことでした。ここにいてはいけないと暗示してくれたのか、自分が壊れる前に代わりに壊れてくれたのか。ともかく、そんな意味を感じたのです。
色メガネを外すという言葉もあるけれど、使い古したメガネを使い続けることは、古い価値観で世界を見渡していることと同じなのかもしれないなあ。
あえてぼやけた世界をみて、新しいめがねを。
きっと新しい何かが見える気がしています。