時間が流れて、髪も髭もどんどん伸びる。ねえ、声をあげたら返事がきたよ。とても嬉しいんだ、僕。
白い服を着ている
無印良品で買った白いTシャツ。
数年前から白いTシャツが流行っているのは知っています。白いTシャツだけが売っている専門店があったり、胸にポケットがあるタイプのものがあったりするようです。僕がミニマリストとして「最低限、自分に必要なものだけ」をもつ生活をはじめるきっかけを作った人もまた、白いTシャツを着ていました。白いTシャツは(えてして白というのは、どんなものにせよ)汚れやすいです。汚れやすいということを理由にして、着られるとすれば「肌着」として、人の目に留まらないかたちで、人の汚れを一番受け止めやすい場所で息を潜めてきました。そんな白いTシャツが、かっこいい、おしゃれという価値観のおかげで日の目を見ることになるのです。ファッションというのは、人の思考を変える力があります。
あさぎーにょが、とても素敵なことを伝えてくれています。
外見を変えることは、簡単です。
だから、外見から変えていって
少しずつ内面もホワイトに。
僕は、ファッションということからは縁遠い人ですが、今となっては、このことにとても共感しています。
僕は、身長170センチとか180センチとかある兄弟の中で、一人だけずば抜けて身長が低いのです。昔から身長が低くて小さくて華奢な体格から、昔からかわいいねと言われてきました。少なくなってはきましたが、146センチの今も時々言われます。
そんな僕は、服屋に行くことがほんの最近までとても嫌でした。憂鬱になるほど。自分に合う服が見つからないことを知っていたからです。みんなが格好いいと思う服はいつだって大きいものばかりだったから。僕は格好よくなりたかった。大きな体格の兄に、身長の高いクラスメイトに、憧れました。いつだって大きくてかっこよくて世界の中心にいるみたいで。あんな風になりたいと思った。思っただけで終わった。思えば思うほど、そんな服を探すほど、見つからないことの孤独感に、失望に、僕は涙をこらえきれなかった。服屋で涙をこらえた時間は、とても苦しかった。
僕も少しずつだけど大きくなって、考え方も変わって、次第に着れるものが増えていきました。今でも服屋に行くのはとても疲れるけれど、あの頃に比べればまだ大丈夫。
僕は、レディースの服を着ています。男性のために作られた服は、どうしても僕は着ることができなかった。いくら素敵でもかっこよくても、僕に着れるサイズはなかったから。兄たちの「これかっこいいよな!」に共感できないのは、今も同じ。そうなると、思春期男子の共通点は儚く散る。ファッションとはその名の通り流行で、彼らのすべて。どうしても入れなかった。
だから、女性のために作られた服を僕は着ることにしました。その方が、僕の体格に合うから。そうしたら、なんとなく性を超えたような気がしたんだ。どちらも着れるのに女性のために作られた服を着ているのではなく、それしか着られない運命を受け入れた。
男性用とか女性用とか、そんなものはとてもくだらない分け方なんだということが分かった気がした。生きていくことに性別とか、それに付随する男らしさ女らしさみたいなものもまた、社会が作り出す幻想で。僕は僕のまま着たい服を着れば良いのだと気づいた。
女性ものの服を着て華奢な体で街を闊歩して「男?女?」と書かれることは日常茶飯事。それも、無印のシンプルな服で。見方は相手が決めればいい。女として僕を見るならそれでいい。
子供から「女?」と聞かれれば「そうだよ」というし、「男?」と聞かれれば「そうだよ」という。大人から聞かれても同じように。
そんなことは、どちらでも良いのさ。
僕の場合は、内面がもつシンプルさと限定的な体格があったことで無印良品が一番だってことが分かった。着れないが沢山あってそこに見出した着れるものが無印だった。本当に有り難い。
これまで着れる服がなくて悲しかった分、着れる服があることがとても幸せなの。チェックの服もシャキッとした服も自分にぴったりなものがあるって本当に嬉しい。喜びに満ちてる。
人からは「もう少しピシッとした綺麗な服を」なんて言われることもあるけれど、そこまで要求しないでくれ。
僕はまだこの色褪せかけている服が着たいんだ。
誰かのための服じゃない、自分のための服を着たい。自分のための服を着よう。自分を変えてくれる、少し勇気をくれる、喜びをくれる服を。
見られることを意識するのはとてもいいことだけれど、自分が見たい自分を意識して服を選ぶといい。この服を着るとウキウキするワクワクする落ち着くって服を着るといい。
僕が最近、白いTシャツを着るのは、着たいと思ったから。おしゃれとかそんなんはよくわからんけど、ただ着たいと思った、着てみたいと思った。汚れてもいい。人がどうしようもなく受け入れられないくらいに汚れたら、いっそのこと、もっと大胆に染みを作ってやろう。
草木染めでもしてみよう。
海のある風景
ときどき、仕事の帰りに家を通り過ぎて、海岸へ。夕方、沈んでゆく太陽を見送る。西海岸に住める幸福は、そこにある。空は、海は、太陽は、心は色を変えてゆく。暗く青い空と夕日の淡いオレンジは混ざり合うでもなく混ざり合うように、僕らの目に映る。
波の音が聞こえる。歌を歌う。通りすがりの人がこちらをチラリと見る。
僕は気にせず、歌う。
海辺には、沢山の死体が転がっている。虫が集っていた。もう半分以上食われていた。魚の死骸だった。
少しずつ砂になってゆく。海に流れ、めぐってゆく。僕はこの海の巡りのどこにいるのだろう。
唯一、人間だけが、この生命の営みから外れてしまったのではないか。人はどこへゆくのだろう。
何に満たされてゆくのだろう。
僕はね、もう満ち足りているのよ。
海の音が聞こえる。
髪が伸びた、時が過ぎた。
髪がのびた。切りたい。でも今月はあと1000円しかない。どうしたものかと考えた末、SNSで、呼びかけることにした。何人かから返事がありました。とても嬉しかったです。ひとりは髪を切ることとは別に今月末に会うことになった。ひとりは三重まで会いにゆくことになるかも。髪を切ってくれるって。とても嬉しいんだ、僕。
さて、どうやってゆこうかな。
髪の毛が伸びて、時間が経ったんだと分かる。人間なんだ、と思う。いくらデジタルな世界になろうと、僕たちはアナログなままこの世界にいる。
髪が伸びて時間が経って、経てば経つほど、僕たちは生きれば生きるほど、死に近づく。
生は、生まれた時にはじまり、生を活かすことを続けた先に、死がある。
僕たちは死ぬまでの命をとことん無駄に生きればいい。社会とかなんだとか、そんなものは、無駄よりも無駄な「仕方ない」ことに過ぎない。そうしているのは自分たちなんだってことに気づくチャンスは。ある。
この際「仕方ない」は、明らめようじゃないか。
とくとくと、脈打つ鼓動、命は雲
僕は死ぬのかもしれない。いや、いつかは死ぬだろう。それは今日かもしれない。明日かもしれない。このブログを書きながら死んでしまっているかもしれない。胸が苦しくても死ぬっていう直前に「胸苦しい 病気」なんて調べちゃうかもしれない。僕たちの体は休まず働いてくれてる。環境に適応もしてくれる。
とてつもなく勤勉で働き者である。
昨日、心臓が痛んだ。2時間は痛みが続いた。左胸が強く刺すように痛んだ。肺に疾患があるから、肺の痛みかとも思った。気胸かなとも思った。
最近、若くして病で無くなるというのはよくある。突然死とか心臓病とか、そんなワードが並ぶ。突然死とか言われたら、もはや太刀打ちできない。死を受け入れる前に死んでる。
仮にこの世界が今夜終わるなら
僕は何をするのかな
残された時間が限られているなら
君は何をするのかな
(世界が今夜終わるなら/GAKU-MC)
何年生きれるつもりで生きてきたんだ
今日が終わる いや 今が終わる
そう思えたやつから 明日が変わる
(革命/MOROHA)
それでも僕たちは生きていくんだよ。生きていくんだ。理由とか目的とか意味とかそんなことはどうでもよくて、ただただただただ、この生を活かして、絶対的な死をわかっていながら途をゆく。泣けるほど素晴らしい人生を、生きていくんだよ。
カラフル
僕たちが見られる景色はせいぜい10km向こうにあるものまでというのを聞いたことがある。この景色のあの黒い影の向こうに何があるか、その向こうにはその先の先の先の自分の背中にたどり着くまで、いったいどれだけの人が生活をしているのか、どんな残酷なことが、どんな美しいことが、そんな景色が広がっているのだろう。
今の世の中、検索すればそんなことは誰だって知ることができる。
画像を検索し、統計資料を眺めれば、その答えは分かる。でも、そこに応えるものは何もない。世界に答えを求めるのではなく、世界に応える。
答えを教えるように子どもを指導するのではなく、子どもが応えられるように、まずは教える人がこの世界に応える。自分の内側に応える。応えるために、尋ねる、訊ねる、訪ねる。
その背中をみて、対話して、大きくなっていく。なんでも与えるもんじゃない。僕たちは与えられているということに気づいた時に、与えたくなるものだから。与えられ続けられている方は、与えられるという甘味に毒されるだけ。与えられるとかさせてもらえるっていうのは、もっと飢えた魂の上にあるもの。ないってことが、よりあることの価値を大きくする。
この与えられた生を活かさなきゃ生きられない状況にある人ほど、人の背中をよくみている。そして動く。動かなければ死ぬだけ。大人はそんな環境を疑似的にでもいいから、楽しさを交えてもいいから、子どもたちにプレゼントしてあげる必要があると、僕は思う。
ああ、どこか遠くへ行きたい。
近くでもいいけどね。
見たことないものを見たい。
そして子どもたちに世界はこんなに素晴らしいんだと伝えたい。
答えを教える先生の外側を見せたい。
自分が見て感じて気づいた感覚を届けたい。
世界はこんなにもカラフルなんだってことを、話したい。
世界を見にゆこう。