ミニレゾのミカタ

『ニートのいずみくん』の日記的なログ

「こたえ」はないけれど、なんでも「こたえ」になる。

そんなことを言う人がいることを、僕は初めて知った。『哲学って「こたえ」はないけれど、なんでも「こたえ」になるよね。』という彼女は、都会で働くリーマン。

彼女との会話の中に見つけた「得」を少しだけ残しておこう。

「答え」と「応え」

彼女は、知的好奇心を他者にいる人へ尋ねることで満たすらしい。僕は、検索ボックスにキーワードを入れて「答え」を探そうとする。でも、彼女は、他者に疑問を投げかけて尋ねることで「応え」を探そうとする。それはとても素晴らしいことだと思った。「答え」はひとりで見つけられるけれど、「応え」は誰かとの関わりの中に見つけられるから、そこにあるストーリーはとても豊かなもので、そこにこそ価値がある。

弱さは見せていいんだ

ずっと実家暮らしをしてきた人からすれば、一人暮らしはとても理想的な暮らし方に思われがち。親のくどいくらいのアドバイスを受けることもなく干渉を受けることもなく、自由に楽しく素敵に過ごすことができるだろうと、思っている。でも、現実はそんなことなくて、朝も昼も夜も自分でご飯を作って食べて片付けて、洗濯物を干して、家賃や光熱水費も支払って、買い物に行って、全部自分で準備してまた会社へ。会社へ慣れてくると、考える余白が増えて、突然にどっと寂しくなってくる。だから何度も泣き明かした。そして何度も母に電話をして話を聞いてもらっている。単身赴任した父も毎晩のように母と電話をしていた。今ではあの時の父の気持ちがわかる。そして、私だけではなく、みんなも一緒なのかなって思えるようになった。母に頼ったりすることも人前で泣くことも恥ずかしくてかっこ悪いことだと思ってた。でも、弱さを見せていいんだって思えた。日本の教育は、人に迷惑をかけないようにってしつけをされて、ボタン掛け違えて、人に頼る方法を知るすべもないまま大人になる。だから、自分の苦悩を他人と共有したり人に相談したりすることが、とても苦手なまま大人になる。でも、それは違っていて、ちゃんと頼って迷惑をかけていいから、弱さを見せていいから、他人に話してみる。応えを探す。そうこうしているうちに信じて頼れる人があらわれるのかもね。

泣くことは最大のデトックス

泣いて泣いて泣きまくるのは、最大のデトックス。とてつもなく大きな問題にぶち当たったり目一杯になってしまってこれ以上進めなくてどうしようもなくて辛い時に、大粒の涙がでる。声が出て泣き叫ぶ。瞼を腫らして目の下にクマができて朝になる。すると、なぜだか気分がスッキリしてる。そして、前に進む力がある。なぜだろう。根本的な問題は何も解決していないけれど、なんとかやれる気がするって自分を強くできる。泣くことって弱さを見せることだと思っていたけれど、実は、人を強くする作用もあるのかもしれないね。涙の数だけ強くなれるよってシンガーも歌ってたっけ。

「知的好奇心の探求」と「心配や不安」は紙一重

知的好奇心を探求する。他者に聞いたり自分で考えたりする。そうしてぐるぐると解決したいことについてぐるぐるとぐるぐると考える。考えて考えて考えているうちに気分が落ちていって、それが不安や心配という状態を生む。でも反対に、知的好奇心が満たされることで、 次の知的好奇心が生まれることもある。また、心配だからこそ、調べたりすることもあるだろう。愚痴(何も知らないこと)が不安を生むのなら、知ることが最大の解決法であるなら、その不安や心配こそが原動力となることもある。人間の特性というのは、良くも悪くも両局面ある。だから、どんなにマイナスなことと思っていることも、プラスに転じることもある。

やりたかったことが今できる。やれなかったことが今できる。

「いつか英語を話せる人になりたい」そう思って紆余曲折を経て、今、英語を使って仕事ができている。それがとても素晴らしい。これは、自分にとっての誇りだと胸を張っていっていた(本当に胸を張っていたかどうかは電話越しなのでわからないけれど、きっとそうだろう)。僕の場合は、これまでやれなかったことが今できている。どちらの立場であっても、何かやりたいことに対して、どこかで「できない」と思っている節がある。「まさか自分がそんなことできるはずない」だなんて思っていたりする。でも、自分が想像しているよりも、できることって結構ある。もちろんできないこともあるけれど、やりたいと思ったことに対して愚直に向き合ったり、チャンスがあれば飛び込みさえすれば、できないなんてことはない。誰もが夢を形に、苦難を希望に変えることができる。生まれながらにしてもっている。

 

あとの話はちょっと覚えていない。

とりあえず眠たい。寝よう。